かつて天才少女と呼ばれたカーラー吉村紗也香が、長い時を経て「ママさんアスリート」として世界の頂点に挑もうとしています。
札幌国際大学時代の輝かしい実績や2013年世界ジュニアでの日本勢初となる快挙を知るファンにとって、今回のミラノ五輪内定は言葉にならないほどの感動を呼んでいることでしょう。彼女のキャリアは決して順風満帆だったわけではなく、五輪落選の過去やフォルティウス独立といった大きな壁を何度も乗り越えてきました。
昔の美貌と変わらぬ美しいフォームで氷上に立ち続ける彼女の傍らには、常に支えてくれる結婚と旦那の存在、そして第一子出産という大きな喜びがありました。
驚異のショット率で世界を震撼させたあの頃から現在に至るまで、吉村選手が歩んできた激動の道のりを振り返ります。この記事では、彼女の原点である「若い頃」の伝説に焦点を当てつつ、最新の五輪内定までの真実に迫ります。
この記事でわかること
- 吉村紗也香の「若い頃」に記録された世界レベルの伝説的な実績
- 幾多の挫折や五輪落選を乗り越えて掴み取ったミラノ五輪への軌跡
- 結婚や出産を経てさらに進化を遂げたママアスリートとしての強さ
- フォルティウス独立から現在に至るまでのチーム運営と成長の物語
吉村紗也香の若い頃はまさに天才少女だった

- 天才少女と呼ばれた才能の原点
- 札幌国際大学時代の躍進と活躍
- 2013年世界ジュニアでの銅メダル獲得
- 世界を驚かせた驚異のショット率
- 昔の美貌と変わらぬ美しいフォーム
天才少女と呼ばれた才能の原点
吉村紗也香選手がカーリングを始めたのは、まだあどけなさが残る小学4年生の頃でした。北海道北見市常呂町というカーリングの聖地で育った彼女は、幼少期から氷の感触を肌で感じながら成長してきました。当時の関係者によると、彼女は始めた当初からデリバリーのフォームが際立って美しく、ストーンを操る感覚において非凡な才能を見せていたと言われています。
地元の常呂高校に進学してからは、その才能が一気に開花します。高校生ながら日本カーリング選手権で表彰台に上がるなど、国内トップレベルの大人たちと互角以上に渡り合う姿は、まさに「天才少女」の名にふさわしいものでした。この頃から既に、現在の彼女の代名詞とも言える冷静な判断力と、ここぞという場面での勝負強さの片鱗が見えていたと考えられます。彼女のプレーを見た多くの解説者が、将来の日本代表スキップ候補として名を挙げるほど、その存在感は別格でした。
札幌国際大学時代の躍進と活躍

出典:http://netfanfan.blog73.fc2.com/blog-entry-655.html
高校卒業後、多くの有力選手が実業団チームへの所属を選ぶ中で、吉村選手は札幌国際大学への進学という道を選びました。学業と競技の両立は決して容易なことではありませんが、彼女は大学カーリング部においても絶対的なエースとして君臨し続けました。
特筆すべきは、彼女が率いたチームが日本ジュニアカーリング選手権で達成した3連覇という偉業です。大学在学中の2010年から2014年にかけて、彼女の技術と統率力は学生レベルを遥かに超越していました。日本大学選手権でも優勝を果たすなど、国内のジュニア・学生カテゴリにおいて「敵なし」の状態を作り上げました。
この時期に培われたのは、単なる技術だけではありません。大学という環境で、自ら考え、チームメイトと議論を重ねながら戦術を組み立てるという経験は、後の彼女のキャリアにおける「自立したアスリート」としての基盤を形成したと考えられます。指示を待つのではなく、自らが主体となってゲームを支配するプレースタイルは、この大学時代に確立されたと言えるでしょう。
2013年世界ジュニアでの銅メダル獲得
吉村紗也香選手の「若い頃」を語る上で、決して避けて通れないのが2013年にロシアのソチで開催された世界ジュニアカーリング選手権です。この大会は、翌年のソチ五輪のテストイベントも兼ねており、世界中の次世代スターが集結していました。ここで彼女たちは、日本のカーリング史に残る快挙を成し遂げます。
伝説①:日本女子ジュニア初のメダル獲得
当時の日本代表は、吉村選手をスキップに、サードの井田莉菜選手やセカンドの氏原梨沙選手といった強力な布陣で挑みました。予選リーグを勝ち抜いた日本チームは、準決勝で地元ロシアに惜敗したものの、3位決定戦でチェコと対戦します。
この試合は精神的にも非常にタフな戦いでしたが、吉村選手は最後まで集中力を切らすことなくチームを牽引しました。結果として日本チームは勝利を収め、銅メダルを獲得します。これは日本女子カーリング界において、ジュニア世代が世界で通用することを証明した歴史的な瞬間であり、彼女の名前を世界に知らしめる最初の「伝説」となりました。当時の優勝国はロシア、準優勝はスコットランドという強豪ひしめく中での表彰台は、極めて価値の高い成果でした。

世界を驚かせた驚異のショット率
世界ジュニア選手権での活躍の中でも、特に語り草となっているのが、ページプレーオフでのスコットランド戦における吉村選手のパフォーマンスです。カーリング発祥の地であり、常に世界トップクラスの実力を誇るスコットランドを相手に、彼女は信じられないほどの精度でショットを決め続けました。
伝説②:世界を震撼させた97%の精度
公式記録によると、この試合で吉村選手が叩き出したショット成功率は、驚異の「97%」でした。カーリングにおいて、スキップがこれほど高い数字を記録することは極めて稀であり、ましてや世界大会のプレッシャーがかかる場面での達成は異次元の出来事と言えます。
ドローショットの精度はもちろん、相手の石を弾き出すテイクアウトショットにおいても、ほぼ完璧なコントロールを見せました。試合自体は3-4というロースコアの接戦の末に惜しくも敗れましたが、対戦相手や現地の解説者からは「日本のスキップは魔法使いのようだ」と称賛の声が上がったという情報もあります。この時のパフォーマンスは、彼女が単なる有望株ではなく、世界屈指のショットメーカーとしてのポテンシャルを秘めていることを証明する「伝説」として語り継がれています。

昔の美貌と変わらぬ美しいフォーム
吉村選手といえば、その実力もさることながら、氷上で際立つ美しさでも多くのファンを魅了してきました。特に若い頃の彼女を知るファンからは、「当時から完成された美貌を持っていた」という声が多く聞かれます。
伝説③:10代から完成されていた美貌
2025年12月の報道においても、当時を知る担当記者が「17歳の頃から美しい投球フォームが全く変わっていない」と証言しています。体幹がしっかりとしたブレのないデリバリーフォームは、機能美としてだけでなく、視覚的な美しさとしてもファンの記憶に強く刻まれています。
また、当時の彼女は「生八つ橋」が大好物であり、遠征先でも美味しそうに食べる姿が目撃されるなど、クールなプレーとは裏腹に親しみやすいキャラクターでもありました。SNSなどが今ほど普及していなかった時代ですが、専門誌のグラビアを飾ることもあり、その凛とした表情と時折見せる笑顔のギャップは、多くのカーリングファンの心を掴んで離しませんでした。現在も変わらぬ美しさを保ち続けている彼女ですが、その原点は間違いなくこの「若い頃」にあると言えます。
吉村紗也香が若い頃から歩んだ苦闘と栄光

- 五輪落選の過去を乗り越えて
- 覚悟を決めたフォルティウス独立
- 支えとなった結婚と旦那の存在
- 喜びの第一子出産と復帰への道
- 悲願達成のミラノ五輪内定
- 吉村紗也香の若い頃から現在までの軌跡
五輪落選の過去を乗り越えて
若い頃にこれほど輝かしい実績を残した吉村選手ですが、シニアに転向してからの道のりは決して平坦ではありませんでした。むしろ、そこには「シルバーコレクター」と揶揄されるほどの、長く苦しい時代が待っていました。大学卒業後に加入した北海道銀行フォルティウスでは、当初は小笠原歩選手の下で学び、その後スキップを引き継ぎましたが、国内にはロコ・ソラーレという巨大な壁が立ちはだかりました。
特にファンの記憶に新しいのは、北京五輪の代表決定戦でしょう。2021年9月、ロコ・ソラーレを相手にまさかの2連勝で王手をかけながら、そこから悪夢のような3連敗を喫し、あと一歩のところで五輪への切符を逃しました。あの時の涙と呆然とした表情は、見る者の胸を締め付けました。平昌五輪に続く代表落選に、彼女自身も引退が頭をよぎるほどの深い失意の中にいたと考えられます。しかし、彼女はそこで終わることはありませんでした。
覚悟を決めたフォルティウス独立
北京五輪出場を逃した後、チームは大きな転換期を迎えます。2021年末、長年所属していた北海道銀行とのスポンサー契約が終了することとなり、チームは解散の危機に直面しました。しかし、吉村選手たちは「フォルティウス」というチーム名を残し、クラブチームとして独立する道を選びました。
これは、安定した実業団という環境を捨て、自ら運営資金を獲得しなければならないプロフェッショナルな道への挑戦を意味しました。自分たちの力でスポンサーを探し、活動環境を整備していく過程で、吉村選手の責任感とチームリーダーとしての自覚はさらに強固なものになったと言えます。
幸いなことに、2022年5月には社会医療法人柏葉会(柏葉脳神経外科病院)がメインスポンサーとなり、選手たちは雇用契約を結ぶことができました。この支援により、競技に専念できる環境が再び整い、チームは新たなスタートを切ることができたのです。この独立劇は、彼女たちの「カーリングへの情熱」と「諦めない心」を象徴する出来事でした。
| 年月 | 出来事 | 詳細 |
| 2021年9月 | 北京五輪代表決定戦 | ロコ・ソラーレに逆転負けし五輪を逃す |
| 2021年11月 | 契約満了発表 | 北海道銀行とのスポンサー契約終了が決定 |
| 2022年3月 | クラブチーム化 | 新チーム名「フォルティウス」として再出発 |
| 2022年5月 | 新スポンサー決定 | 社会医療法人柏葉会と所属契約を締結 |
支えとなった結婚と旦那の存在
激動のキャリアを送る中で、吉村選手の心の支えとなっていたのがプライベートでの充実でした。彼女は2020年5月に、一般男性との結婚を発表しています。お相手は大学時代の同級生であり、6年から7年という長い交際期間を経てゴールインしたと言われています。
旦那様はカーリング関係者ではありませんが、学生時代から彼女の競技生活を近くで見守り、良い時も悪い時も変わらずに支え続けてきた存在です。札幌在住で、彼女が遠征で家を空けることが多い中でも、家庭を守り、彼女が競技に集中できる環境を整えてくれていたと考えられます。
トップアスリートとしてのプレッシャーや、五輪落選という挫折を味わった時、家庭という安らぎの場所があったことが、彼女が再び氷の上に立つ原動力になったことは間違いありません。「一番のファンであり理解者」であるパートナーの存在が、彼女の精神的な強さを支える重要な柱となっています。
喜びの第一子出産と復帰への道

2023年12月14日、吉村選手は第一子となる男児を出産しました。アスリートとして脂の乗り切った時期での出産は、競技復帰への不安も伴う大きな決断だったはずです。しかし、彼女は「ママアスリート」として戻ってくることを諦めませんでした。
産休中、チームは小野寺佳歩選手らが中心となって戦い、吉村選手の帰りを待ちました。そして復帰後、彼女は以前にも増して力強いプレーを見せるようになります。出産を経て体力的な課題や生活リズムの変化など、多くの困難があったと想像できますが、彼女はそれらを全てプラスのエネルギーに変えていきました。
復帰後に彼女が残した「ママ、頑張ったよ」という言葉には、単に試合に勝った喜びだけでなく、育児と競技を両立させることの葛藤や、それを乗り越えた母親としての誇りが込められていたように感じられます。子供の存在が、彼女に新たな強さとモチベーションを与えたことは明らかです。
悲願達成のミラノ五輪内定
そして迎えた2025年12月11日。カナダ・ケロウナで行われた「オリンピック最終予選(OQE)」において、フォルティウスは見事な優勝を果たしました。これにより、2026年ミラノ・コルティナダンペッツォ冬季五輪の出場枠を獲得しました。
吉村選手にとっては、高校時代から数えて実に5度目の挑戦にして、ようやく掴み取った悲願の五輪切符でした。「諦めないで良かった」という彼女のコメントは、10年以上の苦闘を知る全てのファンの涙を誘いました。日本女子としては1998年の長野五輪から続く8大会連続の出場となりますが、フォルティウス単独チームとしては初の快挙です。
現在のチームメイトである小野寺佳歩選手、小谷優奈選手、近江谷杏菜選手、小林未奈選手、そしてコーチの船山弓枝さんと共に勝ち取ったこの勝利は、彼女の長いキャリアにおける集大成とも言える瞬間でした。若い頃の天才少女は、苦難を乗り越え、母となり、最強のスキップとして世界の檜舞台に立つ権利を勝ち取ったのです。
| ポジション | 氏名 | 役割・特徴 |
| スキップ | 吉村紗也香 | チームの司令塔。正確無比なショットが武器 |
| サード | 小野寺佳歩 | 強力なスイープと攻撃的なショットで支える |
| セカンド | 小谷優奈 | 安定したテイクショットでゲームを組み立てる |
| リード | 近江谷杏菜 | 正確なドローでエンドの主導権を握る |
| リザーブ | 小林未奈 | チームを支える若き力 |
吉村紗也香の若い頃から現在までの軌跡
- 小学4年生でカーリングを始め類稀な才能を発揮した
- 高校時代から日本選手権で表彰台に上がる実力を持っていた
- 札幌国際大学時代に日本ジュニア選手権3連覇を達成した
- 2013年世界ジュニア選手権で日本女子初の銅メダルを獲得した
- 世界ジュニアのスコットランド戦でショット率97%を記録した
- 若い頃から変わらぬ美しいフォームと美貌で人気を博した
- 北海道銀行フォルティウスに加入しスキップとして活躍した
- 平昌や北京五輪の代表選考で敗れ長い苦悩の時期を過ごした
- チームの独立によりプロフェッショナルな運営体制へ移行した
- 2020年に大学時代の同級生と結婚し精神的な支えを得た
- 2023年に第一子を出産しママアスリートとして復帰した
- 出産後も変わらぬ技術と精神力でチームを牽引し続けた
- 2025年12月の最終予選で優勝しミラノ五輪出場を決めた
- 5度目の挑戦でついに悲願の五輪切符を掴み取った
- 母としての強さを加えた新しいプレースタイルを確立した
